4783239 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

天の王朝

天の王朝

富山サイエンス・フィクションの世界

▼富山大学・山口博教授の講演録
富山サイエンス・フィクションの世界――古代の空想と事実――
                       富山大学教授 山口博

一、布倉姫伝説

 富山市の南、神通川の渓谷が富山平野に開ける所にある上新川郡大沢野町。そこにある舟倉山に、三世紀の半ばごろ姉倉姫という神が居た。この姫の夫は能登国石動山に住む石動彦(いするぎひこ)であるが、石動彦は心変わりして能登国杣(そま)木山(きやま)に住む能登姫を愛するようになった。姉倉姫は憤り、石動彦・能登姫を相手に戦った。その時姉倉姫に加勢したのが布倉姫である。能登対越中の大乱であるが、“山の神”と言うのものは一人でも怖いもの。それを二人も怒らしたのだから大変である。手当たり次第、物を投げるのが夫婦喧嘩の常であるが、姉倉姫は舟倉山の石を投げ、布倉姫は布倉山の鉄を投げた。

 時の氏神としてこの喧嘩の仲裁に入ったのが大国主命である。大国主命は出雲国の神で縁結びとして知られている。縁結びをするからには、その後に発生する夫婦のトラブルの調停も司るらしい。

 もっとも大国主命は仲裁のためわざわざ出雲国から越中までやってきたのかどうか。彼には高志(こしの)国(こく)にヌナカワ姫という愛人がいた。ヌは玉のこと、ナは「の」の意、ヌナカワは玉の河ということだが、玉を産出する河のほとりの女、玉のような美女、それがヌナカワ姫である。越の国で玉の産出するのは新潟県の姫川で、玉はヒスイである。糸魚川市役所も前にヌナカワ姫の像がある。

 やさしいあなたは、私の白い腕を、私の若やかな胸を、素手で抱いてくださる。手と手を交わし、股を長々と延ばして、私と寝てくださりませと、姫は大国主命に歌いかけたと『古事記』は言う。

 この大国主命の本妻のスセリ姫は日本歴史最初のやきもちやきの女である。大国主命は妖精のようなヌナカワ姫と嫉妬深いスセリ姫との間に挟まって苦労したことだろう。つまり、大国主命は武力で四人の神をおさえこみ罰したという。

 越中の伝説を記した『肯構(こうこう)泉(せん)達録(たつろく)』にある話である。

 この能登と越中の大乱に、姉倉姫に加勢した布倉姫の住む山が、富山市の東南にある高さ五五九メートルの布倉山である。土地の人はこの山をトンガリ山と呼ぶ。近くにある富山地方鉄道の駅「横江」も一七、八年前は「トンガリ山」であった。トンガリ山と呼ばれるのは、その山の形が実に美しいピラミッド型をしているからである。

 越中伝説は、大乱の時、姉倉姫は石を投げたのに、布倉姫は鉄を投げたという。石器文化の時代に、トンガリ山周辺だけ早くも鉄器文化の開けていたことの痕跡だろうか。そのことといい、整然としたピラミッド型であることといい、不思議な魅力を感じさせないだろうか。

 地質学者は極めて即物的にトンガリ山を説明する。今から二五〇〇万年前のグリーン・タフ(緑色凝灰岩=大谷石)時代に海底火山の爆発でこの一帯が隆起し、長年月の間にグリーン・タフの部分が風化し崩れ落ち、今のようにピラミッド型になったのだと言う。立山の弥陀ヶ原のできたのがおよそ一〇万年前だから、それよりはるか昔の事である。

 しかし、それにしては、この整然としたピラミッドは本当に自然の造化なのだろうか。

二、トンガリ山探検

 富山平野が山に連なる所に屹立するピラミッド型の山を見る者は、誰も登りたい魅力にかられるにちがいない。

 トンガリ山に登る道はただ一本。横江の村を抜け、南側斜面の道を徒歩に頼るしかない。電車なら富山地方鉄道立山線横江駅下車。車も横江部落で乗り捨てるほかはない。

 横江部落の登り口には「トンガリ山頂上まで二キロメートル」の標識がある。片側は山、片側は細い谷川の道を登る。ほぼ一時間も歩くと谷川に別れ、なだらかだった道は急勾配になる。踏みしめる足許には硬い安山岩が露出している。登ること約三〇分、足はまだ斜面にあるのに、頭だけが突然頂上に飛び出た恰好になる。

 頂上は半径三メートルぐらいで、驚くほどの平坦さである。円錐のてっぺんをスパッと切り取った形である。この平坦さは自然のものだろうか。

 下りは登山道と反対側の道なき崖を下りる。こちら側に石を積み上げた跡があるという村人の言い伝えを確かめたかったからだが、それは事実であることが下り始めて即座にわかった。大小様々の石を積み重ねてその面はできており、ピラミッドの稜線も石で固められてくっきり出ている。トンガリ山は自然に隆起してできた山ではなく、石を積んで造った人工の山であることがありありとわかった。残念ながら草木や土に埋もれていて、ピラミッドの基部から人工なのか、上半分が人工なのかがはっきりしない。岩組みの稜線這うように下ってくると、これも突然平坦な台地に出る。登山道からではわからなかったが、平坦な台地があり、その上にピラミッドが乗っかっている形である。

 道案内に同行してくれた横江村の人も、トンガリ山が人工の山だという言い伝えが事実であったことに驚いていた。その人の話によると、山裾のどこかに洞穴があり、あやしげな霧が立ち込めていて、洞穴に入ると病気になるという言い伝えがあるそうだ。しかし誰も今は、その洞穴の場所はわからないという。

 一体誰が何のために石を積んでピラミッドを造ったのだろう。私の疑問にその村人は、神を祭るために築いたのだろうかと答えた。村人の判断の根拠は一つの具体的体験にある。それは、かなり以前に、神の指示によると称して、この山上でニニギノミコトを祭る人たちがいた。八月の満月の夜に祭るのであるが、その人たちは神武天皇以前に九十七人の天皇が連なっている天皇家の不思議な系図を持っていた。そのようなことを聞き目撃した村人の判断が、祭りのための人工の山という答えになったのだろう。

 村人は神の降臨と関係ありそうな「天(てん)林(ばやし)」という地のあること、そこにかって石造遺跡のあったことを教えてくれた。

三、天林行

 トンガリ山の裾に開けたかなり広大な台地、それが天林である。十数年前までは石棒を寄せ集めた遺跡があったが、それを壊して田となし、石棒は畔(あぜ)道(みち)に使用したという。なるほど、畔道には直径一五センチ、長さ六〇センチぐらいの磨いた石棒がごろごろしている。男根を模した石棒もあったという。田の隅の盛り土の中からは土器や石器が出てくる。私は記念として石棒と縄文土器の破片とヒスイの石斧を持ち帰ってきた。このあたりは天林南遺跡と呼ばれ、八〇〇〇年前の遺跡らしい。

 この天林は正面にトンガリ山を望む幅広の細長い平坦な台地である。今でこそ陸地の中の台地であるが、古代においては周辺の底地は日本海であり、天林は海に臨んだ台地だった。台地突端にある神社の石碑には、はっきりと海中にあった痕跡がある。つまり日本海に臨んで平坦な細長い台地が開け、そこにはストーンヘンジに似た石棒の造型物があり、正面にピラミッドがあったことになる。ストーンヘンジは古代の天文台説、初歩的なディジタル計算機説、飛行物体誘導装置説などがある。

 もう一度、天林の風景を眺めてみよう。正面にピラミッド、その前面に広がる細長い台地、そしてストーンヘンジ。この情景をどこかで見たことがないだろうか。映画『未知との遭遇』の宇宙船発着場と同じではないか。

 ピラミッドが何であるか多くの議論があるが、ピラミッドパワーを説くある書には次のような記述のあることは有力な参考であろう。
古代一つの文明からほかの文明へ飛行機で飛んで行ったエリート人種があったとすると、これらの人々は、彼らの寺院や秘儀のためのセンターをピラミッド形に造り、ピラミッドの頂上から立ち上るエネルギーの渦を、帰還するパイロットのためのビーコンとして利用していたかもしれない。どのピラミッド文明の中にも、必ず頂上が切り取られ、あるいは平面になった、またはテラス式になったピラミッド群が見られるが、これらは寺院であると同時に飛行機の着地場としての役目も果たしていたのかもしれない。(『ピラミッドパワーを発見した』マックス・トス、グレッグ・ニールセン)

 トンガリ山も古代宇宙船の基地だったのだろか。横江村の人たちはこの空想を必ずしも否定しなかった。なぜならば横江から芦峅(あしくら)寺・千寿が原あたりの人たちは、実にしばしばUFOを目撃しているからである。
 古代日本に飛行物体があったのだろうか。

四、古代日本の飛行物体

 『古事記』や『日本書紀』の神話の伝える天孫降臨を、宇宙の彼方からの飛来と考えることは容易である。平安の小説である『竹取物語』を異星人の変身テーマとして読んだらどうだろう。かぐや姫が月の都の迎えを受けて昇天するラストシーンは何を表現しようとしているのだろうか。月の世界からの人たちの美しさは驚くばかりであった。『今昔物語』の竹取説話はこの人たちを「この世の人に似ざりけり」とショッキングな表現をする。金星人が美しいスタイルをしているという話は、SF好きの人なら知っているだろう。

 その月の世界の人たちは飛ぶ車で飛来し、真夜中だというのに真昼の明るさになり、人の毛穴さえ見えるほどだったという。宇宙船の接近と考えられないだろうか。固く閉ざした竹取の翁の家の戸は自然に開き、かぐや姫は何物かに誘われるように飛ぶ車に乗る。宇宙船の話には不思議な光線が必ずつきまとう。翁の家を固めていた武士の弓矢を持つ力が自然に失せたというのも、光線の働きだろう。

 飛ぶ車に乗るのであるから羽衣など必要ないと思われるのだが、乗車の前にかぐや姫は羽衣を身に着ける。これを着ると地球人と異なる感情になるというのだが、宇宙服を着ることによる知覚変化と考えたらどうだろう。彼らは壺の中の薬をわずかに食すだけだったが、宇宙船内の生活をTVで見慣れた私たちは、それを宇宙食料だと即座に考えてしまうのである。

 『丹後風土記』にある浦島の話も異星人との交流説話であろうか。浦島の乗った亀は五色に輝いていた。瞬時にして広大な島に着いたが、そこは玉を敷いた輝く大地であり、建物も光り輝いていた。プラトンが書き残したことで有名なアトランティス大陸にも、オルハリコンという輝く金属で飾った建物があったという。

 浦島の到着した所を私たちは海中にある竜宮城と思っていたが、『丹後風土記』はそうは言わない。亀は美女と化したが、その美女は「天上の仙家の人なり」と名のり、雲立ち渡る所だというのであるから、宇宙の彼方と考えねばならないだろう。それであるから浦島を迎えに出た七人の子供たちは、自分たちはスバルだと言うのである。

 古代における惑星間交流史に関心ある者なら、スバルという星がしばしば話題になることを知っているだろう。インカ帝国時代以前に起源を持つ南アメリカの神話には、スバルから聖なるものが降ってきた話がある。スバル星は西洋名ではプレアデス星団だが、プレアデスはギリシャ神話に出てくる七人の娘の名である。プレアデスの父は、空の丸天井を肩で支える罰を課せられたアトラス。ペルーの伝説では、この星は天の扉だと言う。スバルは地球と密接な交流関係にあったのだろうか。ピーター・コロシモは、古代の地球における宇宙人の痕跡を述べた彼の著書にわざわざ「スバルからの訪問者たち」の一章を設けているほどである。浦島がスバルに迎えられて、輝く宮殿に入ったということは見逃してはならない記述である。

 浦島の未知での場所の生活は三年間のはずだが、出発地に戻ってみると三百年たっていたと言う。手にした玉手箱を開けるとタイムスリップして浦島は瞬時に老化したのだが、玉手箱というのは時間制御装置であったのだろう。

 京都に鞍馬寺がある。ある伝説によると、鞍馬寺の尊天は、その昔金星から輝く火に包まれた天車に乗って下ったサナート・クマラだという。クマラがクラマになったのだが、この神の名はサナート・クメラとして聖典にも出てくる。

 宇宙からの飛来を思わせる話は江戸時代にもある。元禄の作家井原西鶴の『西鶴諸国ばなし』にある「姿の飛び乗り物」がそうだ。

 寛永二年の冬、所は大阪の池田。呉服(くれは)の宮山にきれいな乗物があった。乗っているのは二十すぎの美女。菊と桐の模様の着物を着、蒔絵の箱を前に置いているが、中にはいろいろな干菓子が入っている。傍にはかみそりが一丁ある。村人たちは声を掛けたが女は無言。その眼は美女とは思えぬ怖しさがある。村人は恐怖にかられて逃げ帰ったが、美女一人山中に置くわけにもいかず、再びそこに戻ってみると、既にその乗物はなかった。

 間もなくその不思議な乗物は発見された。宮山から四キロ南の地であった。担ぎ手がいないのにどうして移動したのだろうか。その村の男たちはこれはよき女とばかり襲いかかると、たちまち乗物の左右から蛇の頭が飛び出し、男たちに食いついた。男たちは眼がくらみ気を失ったが死ぬことはなく、奇妙な病気に苦しんだ。

 その乗物は大阪、京、奈良と出没する。乗っている人は時により美女、老人、顔二つ、目鼻のない顔などであった。道行く人の肩に乗物の棒が載ることもあるが少しも重さを感じないが、しばらくすると極度の疲労感に襲われ歩行ができなくなる。その乗物は火の玉のようだったと言う人もいる。

 こんな話だが、この不思議な乗物をどう解釈したらよいのだろう。きれいでスピードがあり火の玉のようだということは宇宙船を思わせないだろうか。乗っている人が美女だというのは金星人だからだろうか。菊と桐の模様の着物というのは各種の器具の付いた宇宙服。蒔絵の箱は金属製でその中の干菓子は宇宙食。かみそりは操縦桿か光線銃か。村人の質問に女が無言であったのは、宇宙人の情報伝達手段がテレパシーによるからだろうか。男たちに食い付いた蛇というのはレーザー光線発射装置であろう。宇宙船やそれから発する光線を蛇や龍にたとえることは、古代の惑星間交流史文献に多くみられるところである。たとえば『日本書紀』によると、斉明天皇の時代に青く光る笠をかぶった異国風人物が龍に乗って空中を飛行していたとある。これも異星人の話だと思うのだが、蛇とか龍はそのような意味がある。奇妙な病気で苦しんだというのは、いうまでもなく放射能による障害だろう。

 また江戸時代の随筆『梅の塵』には、美女の乗った不思議な球状物体が海岸に流れ着いた話が絵入りで収蔵されている。

 以上のような幾つかの例をみてくると、日本の古代において、他の惑星と交流のあったことも納得いくではないか。トンガリ山も宇宙船の発着場であったのだろうか。

五、竹内文書

 トンガリ山が人工のピラミッドで古代の宇宙船発着場であったとするには文献の裏付けが欲しい。それがあった。『竹内文書』との『磯原文献』とも呼ばれている奇書がそれである。

 『竹内文書』は三六〇億年前の太古の神代からの歴史を述べている。現在の学説では地球の年齢を五〇億年と推定している。一五〇億年とする説もあるが、三六〇億年ともなると地球形成以前の歴史になる。空間的には地球や太陽系はおろか、神々の故郷である宇宙の彼方の世界も描かれている。そのスケールの大きいこと、世界のどの神話、旧約聖書の伝承さえしのぐものである。

 地球に飛来した神々の故郷は天日国とあるが、これは四一〇光年彼方のプレアデス星団つまりスバル星だろうと解釈されている。神々はこのプレアデス星団から天の浮船に乗って地球に飛来、着陸したのが日本は越中国の御皇(みこ)城山(しろやま)である。

 そこに全世界の中心の行政府が置かれ、神の子孫である代々の天皇はそこに住んだ。天皇の宮殿は間口約二二〇メートル、奥行き約二〇〇メートル。外壁は金漆で塗られ、屋根はヒヒイロカネという輝く金属の瓦でおおわれていた。アトランティス大陸のオルハリコンに当たる金属だろうか。

 神々が降臨し都の置かれた越中を中心にした中部山岳地帯、及び現在は日本海の海底になっているかなり広い地域が高天原(たかまがはら)と呼ばれていたという。その後、地球に大異変が起こり、越中国の大半が海中に没し富山湾ができた。

 御皇城山に住んだ天皇たちは、天の浮船で全世界を飛行したが、その乗物は一日に地球一周できる速力を持っていた。

 そして第二四代アメノニニギノスメラミコトは宮殿を御皇城山から移したが、そこがトンガリ山すなわちアメトツチピラミッドである。ニニギノスメラミコトはそこから天の浮船に乗り飛行したというのである。

 『竹内文書』が空想の産物で信じ難い書であるにしても、古代全世界の中心地が越中国でありトンガリ山だったという話は実に楽しい。富山を材料にした小説は幾つかあるが、このように富山を高めてくれる小説は他にない。この痛快さはここにとどまらない。傑作なのは世界の大宗教家の始祖たちが何れも越中国で修行をしたという件である。

 たとえばモーゼ。聖書ではモーゼはシナイ山上で神から十戒を授かったとあるが、実際は、彼はシナイ山から反対に下り、アカバ湾から船で日本に渡った。越中の行政府で一二年間修行し能登半島にある宝立山で天皇から十戒を賜って帰国した。ユダヤ教の発祥の地は越中だという。神武天皇以前である。

 たとえばキリスト。垂仁天皇の時代、一八歳のキリストが来日。越中の行政府で五年間修行して帰国。ゴルゴダの丘で死んだのはキリストの弟で、本人は再び来日。青森県八戸の戸来(へらい)村に住み、一一八歳で死んだという。

 その他釈迦もマホメットも孔子も孟子も、世界の聖人たちはほとんどが越中で修行したそうである。孔子は呉服(五福)に住んでいたというのであるから、富山大学のある所は、孔子の居住跡であり、学問の府としては誠にふさわしい所である。面白いのは中国の三皇五帝の一人の伏(ふ)義(ぎ)氏である。彼の着いた港であるので「伏義の港」と呼ばれ、それが現在の「伏木港」だそうだ。

 『竹内文書』は、四世紀に漢字の渡来する以前に我国にあった象形仮名文字いわゆる神代文字で書かれていた古代の伝承を五世紀後半に漢字に直したそうだ。しかし、神代文字は江戸時代の国学者によって作られた偽物だというのが学説である。そうすると『竹内文書』は偽書か。聖人来日の件を信ずる人はいないだろう。何故、『竹内文書』は越中を世界の中心にしたのか。この奇書を世に出した人物が、実は明治年間に富山に生まれていることと関係があるのだろうか。

 一体、古代において全世界の政治文化の中心であった越中の御皇城山とはどこなのか。富山市久郷(くごう)(かつての婦負郡神明村大字久郷)という説もあるが、定かではなく、知る人もいない。(了)


☆☆☆参考:以下は、私が共同通信富山支局記者時代、1984年6月19日夕刊用に書いた原稿。

【富山】北アルプス・立山のふもと、富山県中新川郡立山町横江に尖山(とんがりやま、標高559メートル)というナゾの山がある。形がピラミッドに似ており、山の中腹に石を積み上げた跡があるため、古代ピラミッドだとか、極端な例ではUFOの基地まで諸説あり、地元で話題になっている。

この山について富山大学人文学部(国文学)の山口博教授(52)はピラミッド説を採る。6年前、尖山を探検し、山の北面の稜線が石で固められてくっきり浮き出ていることに気づいた。

山口教授は「草木や土に埋もれて、基部から人工なのか、上の半分が人工なのかわからないが、明らかにピラミッド。5世紀後半に書かれたとされる、神代の歴史を記した竹内文書(たけうちもんじょ)にも書かれている」と話す。

茨城県北茨城市磯原町の竹内文書の「神代の万国史」などによると、尖山は神代の大昔、上古第24代・天仁仁杵天皇(アメノニニギノスメラミコト)の神殿「アメトツチヒラミツト」で、天皇はそこから「天の浮舟」(あめのうきふね)に乗り、全世界を飛行したとされている。

竹内文書の真偽は別にして、地元・横江の村にも尖山にまつわる不思議な話は多い。(1)尖山は女人禁制の山で、女性が登ると必ず雨が降ったが、約30年前の8月15日の夜、山頂でよろずの神々の祭りをしたら雨が降らなくなった(2)近くの天林(てんばやし)という台地には縄文時代の石で囲われた住居跡があり、大昔、神が降臨した――などというのだ。

横江村の住民は「山の北側の中腹に高さ六、七メートルの石垣が、約50メートル間隔で並んで段のようになっている。近くには一、二メートルの丸い高台がある」と証言する。

付近の‘UFO目撃者’も多い。上新川郡大山町小見の船尾美津子さん(55)は家族や友人ら8人と、55年2月21日夜、尖山の頂上いっぱいにオレンジ色の光体が2つになったり1つになったりするのを約3時間目撃した。

立山町千寿ヶ原の佐伯金三さん(62)は53年の8月と10月に、自宅近くで、オレンジ色の飛行物体を目撃。一回目は地上すれすれからまばゆいばかりに光って、回転しながら飛び去ったという。

山口教授は‘天の浮舟’とはUFOのことで、ピラミッドは空からの着陸目標になるのでは…」と推理する。ピラミッドに、UFOの基地――。ナゾはナゾを呼び、山口教授は「近い将来、この不思議な山を発掘調査してみたい」と古代遺跡発掘への抱負を情熱的に語っている。


© Rakuten Group, Inc.